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1988年11月設立時
私たちは、地域で障害児・者が一人の市民としてたくましく生き抜いていくことを願って、障害児・者とその親を中心に障害児の後期中等教育の保障を求めて運動を進めて参りました。
一昨年来、芦屋市教育委員会(以下、市教委)は、障害児をはじめ手のかかる子は取らないという「教育改革」を打ち出し、この15年間にわたって50数名の障害児を受け入れてきた芦屋市立芦屋高校(以下、市芦)は、もっとも教育を必要としている子どもたちを大量に排除しました。
合否判定の結果を知らされた親は、言いようのない苦しみと、ぶっつけようのない憤りに身を震わせました。
障害児、親、家族は、ここに至るまでこのような辛い思いをいくたびかくぐり抜けてきました。
ある障害児の親が「俺ら、踏まれれば踏まれるほど強くなるねん、麦みたいに。そうや!麦・・・麦の家を作ろう。」
このとき、私たちは、障害児・者が地域で生きるよりどころにするために「麦の家」を設立することに決めました。
1.障害があるからこそ、人と人とのつながりの中で生きていきたいのです
障害児・者は、今の社会では確かに生きにくいもです。それは、障害児・者の学校や作業所、施設はあっても、障害児・者もみんなと行ける高校、一緒に働ける仕事場、一緒に生活を楽しむ場は、ほんの少ししかないからです。
障害があろうがなかろうが、また、障害が軽い子も重い子も「皆と友だちになりたい」「一緒に遊びたい」「街をぶらぶらしたい」「結婚もしたい」「仕事もしたい」という気持ちに変わりはないのです。
しかし、そんな気持ちはあっても、地域で受け入れてくれる学校がないばっかりに、遠い養護学校に通う子もいます。親が年を取ったり、離婚したりして施設に入る仲間もいます。職安に行っても「健常者でも仕事がないのに」と断られた仲間、せっかく仕事をしていても、人間関係がうまくいかなくて職場を去っていった仲間、行くところがなくて一人ぼっちで家にいる仲間もいます。
でも私たちは、この芦屋の街の中で、人と人とのつながりの中で生きていきたいのです。一人だったらあきらめてしまいそうなこと、つぶれてしまいそうなことを、みんな「麦の家」をたまり場にして考え合い解決していきたいと思います。
2.みんなと一緒に高校へ行きたい
障害があっても、小さいうちは親や家族の愛情の中で守り育てることができました。マーケットに行ったとき、パック詰めの品物を片っ端から破ってしまった時、「いたずら好きの子ですみません」と抱きかかえて謝ったり、黙って近所の家に入り込んだ時、「迷子になってしまって・・・」と迎えに行けば何とか過ごせました。しかし、いつまでも家の中で閉じ込めて育てることはできません。いろんな人たちにも出会います。奇異の目で見られたり、気持ち悪がられたり、時には犬でも追うように手で払われたりもしました。しかし、それはこの街で生きていく限りさけて通ることはできません。
そんな時、保育所や幼稚園や学校はありがたいものです。そこに通いながら、親も子も社会に出ていく心が準備できるからです。わが子を一人ぼっちにさせず、親離れ・子離れするには、地域の子どもたちが当たり前に行っている所、人と人のつながりが生まれる場所へ行き続けるしかありません。
思い切って行ったものの障害児はやはり目立ってしまいます。できないことが目についてしまいます。授業参観の時、親が見ている前でウロウロしたり、突然笑いだしたり、教室から抜け出してみたり、そんな子どもの姿にいたたまれず家に飛んで帰ったこともあります。
「普通学級の中にいても、ただのお客さんやったらあの子らもかわいそう。無責任な親や!」「ちょっとでも障害を軽くするのが親の責任と違うか?」・・・そんな声があちこちから聞こえるたびにずいぶん悩みもしました。しかし子どもたちは元気でした。
J君(1988年度市芦不合格)は、いつ起きるかわからない発作の不安を抱えながら、毎日元気に学校に通い続けました。そして、学校で大きな声で「大阪しぐれ」を歌います。「ひと〜りで いきてくなんて〜 で〜きないわ〜」と。巷では、マイクを握ったら離さない「カラオケのJ」と呼ばれています。
そのJ君は、数種類の薬を飲んできましたが、そのため背中に毛が生えたり、口が腫れ上がったりの副作用に悩まされました。
「どうせ障害が治らへんのやったら、一生薬に頼るより、じゅんの生きる意欲、発作に対する抵抗力に欠けてみたい」と腹をくくった親は「万一のことがあっても責任は持てない」との医者の反対を押し切って、一つ減らし、二つ減らして、今では命にかかわる最低限の薬だけになりました。
ある夜、J君の部屋でドーンという音がしました。とんで行くと発作のため体が硬直したままけいれんしています。それでもじゅん君は倒れずに、一生懸命踏ん張っている姿に「頑張れ!」「頑張れ!」と思わず叫びました。
クラスの友だちも発作に慣れてきました。発作が起きるとまわりの子どもたちも動きを止めます。そして、発作が終わりかけると「1、2の3。はい、スタート!」とかけ声をかけ、何事もなかったように動き出すのです。そんな関係の中で、J君は、だいぶうまく発作とつき合うようになったのです。
中学3年生の始め、J君が入院した時、クラスの友だちからたくさんの手紙が届きました。「じゅん君へ。元気ですか?最近J君に会っていないからさみしいです。早く学校に来て下さいね。待っています」
J君は、病院でこれらの手紙を何度も何度も読み返していました。
でも、楽しいことばかりではありません。
J君は中学校に入学した頃、一週間続けて体にあざを作り、鼻血を出しながら全身びしょぬれになって帰ってきたこともあります。その時、お父さんはこう言いました。「以前やったら学校にどなりこんでいたやろうなぁ・・・。だけど、いじめられることも子どもどうしの世界やし、これも関係やと思って耐えたんや。今いじめている子が、ひょっとしてじゅんの一番の友だちになるかもわからん。けど、やっぱり辛かった」
ムー君(永岡 基:1988年度市芦不合格)は電車が大好きです。時々、学校を抜けて電車に乗りに行くこともあります。最初の頃は学校中大あわてでした。
「弁当も食べんと腹へってるやろなぁ・・・。今度行く時は、弁当を食べてから行ったらいいのに」と言ってくれる友だちがいます。
「ムー君は、ほんまに電車が好きやなぁ。学校を抜けていろんな所へ行けていいなぁ」とうらやましがる友だちもいます。
ムー君は何時間でも机に向かって好きな字を書いています。かと思えば、突然暴れ出します。クラスの子にとっても最初はまったくその理由がわからなかったのですが、いろいろなかかわりの中で、暴れる理由のあることを突き止めていけるようになりました。ある時などは、朝から暴れているムー君をよく観察して、歯の間に突き刺さっている魚の骨を見つけるようになりました。
そんなクラスの子どもたちの一人が次のように生活ノートに書いてくれました。「ムー君が障害を持っていてもいなくても、関係なく怒る感情が出てきました。普段の日も私たちと変わりなくつき合っています。ある日、ムー君が怒った時『ムー君、そんなにわからないんやったらみんなでムー君のことを見放そう?』と言いましたが、その時先生に『自閉症の子にそんなこと言ってもわからないよ』と言われました。でも私自身、ムー君は私たちよりも感情豊かで、人が今何思っているのかとかということが人一倍よくわかていると思います。私たちも時々しか、今ムー君が何を考えているのかわかりませんが、今まで怒る時必死で怒ってきました。」ムー君は、他のノートはいっぱい落書きするのに、なぜかこのノートだけは落書きをしません。
ムー君は、ごんたな子が苦手です。その子らがそばを通るだけで緊張します。でも、中学校卒業間近になって、ようやく、ごんたな子ともつき合えるようになりました。
卒業を間近に控えたある日、ごんたのM君が「俺らも市芦に行こうと思ってるけど、たぶん落とされるやろ。そやけど、Jやムーは行かしたったらええのになぁ・・・」と言ってくれました。その気持ちがうれしくて、その晩にM君の家に電話をしました。その時、M君のお母さんがこんな風に言われました。「今は、私の言うことも聞かずつっぱっているけど、小学校1年の頃は一番中のよかった子が障害児で、その子が家の事情で引っ越すことになって、あの子がその晩泣き明かしたことを思い出します」「社会の厳しさを身をもって知るためには、高校を落ちてもしかたないと思っていましたが、あの子の思いを知った以上、やっぱり、高校うかって欲しい。ほんまは行かせてやりたいと思います」
9年間を通して一番心に残る出会いの一つでした。
障害があることでみんなと同じことが出来なくても、おたがいを認め合う関係がありました。その中で、私たちの子どもは障害者として生きていく力を少しずつ、少しずつつけてきたと思います。そんなわが子の世界をもっと広げてやりたい、同世代の仲間たちと大切な青春時代を過ごさせてやりたい。そんな思いから高校へ進学を決意したのです。
しかし、J君もムー君も切り捨てられてしまいました。
3年間のつき合いの中で、決して仲良しだったわけではないのですが、市芦を必要としている者どうしが支えあい、これから一緒に過ごせたであろう高校生活が無惨にも打ち砕かれてしまったのです。
市芦は、解放運動の成果として生まれた進学保障制度により、この15年間にわたって50数名の障害児を受け入れてきました。
しかし、一昨年来、国際文化都市芦屋(?)にふさわしい進学校に市芦を作り変えようとする市教委は、進学保障制度を実質廃止して、定員141名にもかかわらず、昨年度33名、今年度25名の生徒が定員内で不合格にされました。高校教育を受けるにふさわしい学力に達していないと言う理由です。
「学力」だけで切るということは、障害児にとっては生きる意志や意欲を切るということなのです。市芦に行きたかった障害児たちは、市教委の言う「それぞれの障害の種類や程度」によって養護学校、私学、在宅と引き裂かれました。
市芦のある生徒は、その3年間をふり返って次のように欠いています。
「私の学校は普通高校ですが、障害を持った子も一緒に学んでいます。その中で気づいたことがたくさんあります。障害を持っているから何も出来ないとか、手がかかるとか、世間の人から差別的に見られますがそんなことはありません。私は今、障害を持った子どもも、普通の子どもたちと同じように学校に行くべきだと思います。そうでなければ私たちの考えや教育も歪みを持つようになると思います。
私は障害を持った子と一緒にいることで、障害者のイメージが変わってきました。私よりよいものをたくさん持っている学校の友だちをたくさん見てきたからです。何よりも、人が生きていくことの強さを教えられました。」
今在学中の市芦の一人の障害児の父親は「私の子は情緒障害児です。中学校時代登校拒否が始まり、それが高じてもう大変でした。市芦に入学できてからは、一日も休まずに一年間を過ごしました。市芦教育のおかげだと思います。
市芦には人を大切にする、弱い者をいたわり育てる風土があります。こんな良い学校があるということを芦屋市は日本中に誇るべきだと思います」と語っています。
私たちは、そんあ人たちの思いをたぐりよせ、支えあいながら今後も障害児の高校教育を保障する闘いを進めていきます。
3.「麦の家」を障害児・者が地域でたくましく生きるよりどころにしよう
(1)みんなと一緒に地域の保育所、幼稚園、学校に通いたい
−−−障害児の就園、就学、教育を考える拠点に
兄弟や他の子どもと同じように、わが子の友だちに囲まれて楽しく育って欲しい。出来ないことがいっぱいあっても、お互いに認め合う関係の中で障害者として生き抜く力をつけて欲しい。そして「卒業しても一人ぼっちにならないように」と願わない親はいません。
しかし、市教委は、障害児の高校進学の道を閉ざす一方で「地域の保育所や小・中学校に行きたい」という障害児の親に対して、養護学校や施設に行きなさいという指導を強めています。三才時健診や小学校の就学時健診を通して養護学校への入学を盛んに勧めています。
そして小・中学校の障害児学級も一昨年、昨年と減らされてきています。また「障害児学級の授業を多くしなさい」という市教委の指導により、取り出し授業が多くなり、クラスの子どもどうしの関係が壊されたり、一緒に遊んだり学び合う場が狭められたりしています。
保育所でいえば「指定保育所」ため、校区外の遠方の保育所に通わなければなりません。でも、保母さんたちも頑張ってくれています。その中でたくさんの友だちも出来ました。でも、せっかくできた友だちも、卒園して校区の小学校に行く時には、その子どもたちとも離ればなれになり、またはじめから人間関係を作っていかなければならないのです。いま、保育所も保母さんや調理員さんが減らされています。そのしわ寄せをいちばん受けるのは、やはり障害児たちです。
一方では就学前通園施設が設立されるような動きもあり、もし、それが出来れば保育所よりそちらの方に就学指導されることも予想されます。しかし、保育所や小・中学校については親が「どうしても近所の保育所、学校に行かせたい!」と要求すれば、親の希望が最優先されるようになっているのです。
「地域の保育所、学校に行きたい」と願っているお父さん・お母さん。子ども教育のことで悩んでいるお父さん・お母さん。一人で悩んでいてはあきらめさせられたり、つぶれていったりします。就園、就学、教育にかかわる問題を「麦の家」に持ち寄って下さい。みんなで考えて解決していきましょう。学校の先生も多数参加して下さる予定です。
(2)街で楽しく生きたい
−−−障害者の生活を考える拠点に
高校を切られても、住み慣れた街や今までつながってきた人たちとの中で生きたい。そう思った時、私たちは、やはり在宅するより他にありませんでした。
今でもムー君は、朝起きたら制服を持って2階から降りてきて「ガッコ」「ガッコ」と言います。街で山手中学校の生徒を見ると「ズボン」「カバン」「ヤマチュウ」とうれしそうに言いながら指を指します。
J君は「市芦はバスで行くの?歩いていくの?」としつこく聞きます。学校に行きたい、みんなと一緒にいたい、という気持ちをこれほど強く持っているとは!そのことは在宅になって改めて感じました。
それに、育ち盛りの子どもたちと毎日親子差し向かいの生活をするのはやはり息が詰まります。
しかし、中学校を卒業した障害児が楽しんだり好きなことをしようと思っても、芦屋にはみんなの中に参加できる場所や集まりがほとんどありません。ある子は歌がとても好きです。その楽しみを作るため、遠い川西まで出かけています。好きなプールで泳ぐため西宮まで行っている子もいます。このように楽しみを広げようとすれば、みんな他市に出かけているのが実情です。
学校時代は修学旅行や体育祭、文化祭、また、映画や買い物、ドライブ、電車に乗ることから、一緒に過ごし、工夫したり、話し合ったりする関係があったのにその関係を断ち切られてしまったのです。
在宅の先輩である車椅子の乗鞍さんは、坂と車の多い芦屋の街が、障害者にとってどれほど住みにくいか体で感じながらも、たくましく生活しています。
「麦の家」を作ろうと言った時、乗鞍さんは「会費だけではあてにならん」とあまり乗り気ではありませんでした。何回か話しているうちに「よっしゃ!一緒にやるわ。そやけど、会費以外にも金を作る方法をかんがえなあかん」と言って、明くる日からアルミ缶集めに町中走り回っています。「金をつくらな!」もうそれしか頭にありません。集めたアルミ缶を家の前で金槌でつぶしています。近所の迷惑もおかまいなしに大きな音でカンカンやります。そのうちいつの間にかアルミ缶が増えています。近所の人たちが少しずつ持ち寄ってくれていたのです。
私たちはそんな姿に励まされながら、家に閉じこらずに、人との出会いを求め街へ出て一緒に参加していける場を一つ一つ広げていきたいと思います。
今「麦の家」では在宅になったじゅん君やムー君と一緒に街をぶらぶらしたり、買い物をしたり、友だちを呼んで料理を作ったり、友だちが行っている高校に遊びに行ったり、大好きな電車に乗って出かけたりしています。又、乗鞍さんを中心に5円玉でぞうりや五重塔を作ったりもしています。もっと多くの障害者や親や応援してくれる人たちに参加していただきたいのです。
今後「麦の家」では次のようなことも始めたいと考えています。
☆ 障害者と健常者の出会いの場、同年代の子どもどうしの交流の場を作りたい。
月に一度レクレーションを計画しています。障害者や家族だけのレクレーションより、同級生や近所の人たちも参加してくれるほうがずっと楽しいはずです。それに、ムー君やじゅん君と同じように高校を切られた仲間も来て欲しいです。
車椅子を押して電車に乗って、一緒に同じ釜の飯を食べてにぎやかにつき合って欲しいです。
潮干狩り、魚釣り、飯ごう炊さん、焼き肉パーティ、花見、カラオケ大会、ソフトボール、海水浴、芋掘り、スケートなど計画しています。
☆ 障害者問題の学習会、各地の仲間との交流の場を作りたい。
障害者に関する教育、生活、仕事、住宅、交通、医療などの制度や法律は、確かにややこしくてよくわからないことだらけです。
しかし、私たちがよく知らないことや、よくわからないことで差別されたり、権利を侵されたり、損をしたりすることがいっぱいあります。
「麦の家」に持ち込まれた問題について必要に応じて学習会をします。
また、各地で私たちと同じ問題を抱えながら頑張っている障害者や親はたくさんいます。その人たちとの交流も深めていきたいと思います。
(3)みんなと一緒に働ける場所がほしい
−−−障害者の仕事を考える拠点に
仕事といえば能力、能率等、学校以上に働く者を選別しがちですが、その発想はどこかおかしいと思います。
私たちは、どの仕事が出来るかではなく、出来ないことがいっぱいあっても障害者が確実にその仕事に参加し、障害者がいることでその仕事が色々工夫され特徴づけられるものになればよいと思います。
私たちは、子どもたちが学校で共に学び、共に育つ中で作り上げてきた関係を、今度は仕事を通して街の中で作っていきたいのです。
私たちは、そのとっかかりとして県下各地の障害者たちの生きる場、作業所、店から生産され販売されているパン、牛乳、卵、豆腐、調味料などの食料品、トイレットペーパー、洗剤などの日用品の共同購入を始めています。(これは「シティライト芦屋」として1年前よりすでに活動しています。)
それは、配達を通して同級生や学校、近所の人々と声をかけ顔を合わす機会をより多く作りたいからです。最初は品物を壊したり、落としたりしながらも、繰り返し出会うことで励まされたり、叱られたりしながらお互いが工夫する中から、「ムー君の持ってきてくれるパンはおいしいよ。次も楽しみに待っているよ」「じゅん君こんどはトイレットペーパーも持ってきてね」そんな関係が育ってくれればうれしいです。
配達の途中で、友だちの誰かが「うちの仕事手伝わないか」とか「いい場所が空いているから、一緒に何か店でもやらないか」と声をかけてくれる関係へと発展していくことを夢見ています。
「働く場が欲しい」この障害者にとって切実な願いを実現するために「麦の家」をたまり場にしていろんなアイディアを持ち寄って欲しいと思います。
4.ぜひ、あなたも「麦の家」の協力者、会員になって下さい!
以上述べてきましたとおり、私たちは、この芦屋の街で障害児・者が一人の市民としてたくましく生き抜いていくためのよりどころとして「麦の家」を設立します。しかし、この「麦の家」を運営していくためには、多くの人々のご協力と資金がいります。
あなたもぜひ「麦の家」の協力者、会員になった下さい。
お金のある人はお金を、
知恵のある人は知恵を、
力のある人は力を、
時間のある人は時間を、
情熱のある人は情熱を
「麦の家」に寄せて下さい。そして一度お立ち寄り下さい。
<主な賛同者・団体名>
(故)玉本 格(えんぴつの家代表)
泉 公一(弁護士、障害者問題を考える兵庫県連絡会議代表)
福井 達雨(止揚学園園長)
浜根 一雄(親・障害児と共に生きる全国親の交流会世話人)
佐治 孝典(神戸YMCA)
佐治 菊代(神戸YMCA)
前田 裕晤(あゆみ保育所理事長)
玉田敬次郎(日本キリスト教団芦屋三条教会牧師、芦屋身体障害者福祉協議会副会長)
山崎 延子(元市芦高校育友会長)
牧野 君代(主婦)
中村 猛(教育を考える芦屋市民の会代表)
深沢 忠(芦屋市立高校教職員組合委員長)
平坂 春雄(全港湾関西地方書記長)
新谷 英子(関西芸術座・女優)
金 成 日(がらくた茶房「どるめん」店主、指紋押捺拒否裁判中)
大前 幸正(日本キリスト教団芦屋浜教会牧師)
滝山 昌彦(市芦救援会事務局長)
松尾 誠(しゃくなげ農園)
生村 五郎(精神科医師)
安藤 康子(婦人民主クラブ)
鎌田 公子(知恵遅れの子どもと共に歩む会)
障害者問題を考える兵庫県連絡会議
えんぴつの家
みんなの労働文化センター
すばる舎
ひびき共同作業所
日本脳性マヒ者教会・兵庫青い芝の会
障害者の生活と教育を創り出す会
障害児・者問題なんでも話す会
障害者の生活と教育を町で進める会
(順不同、敬称略)
1986年11月
障害者が街で共に生きる
みんなの麦の家
設立のための趣意書
障害者が街で共に生きるみんなの麦の家
〒659−0041 芦屋市若葉町6−1−1744
TEL/FAX 0797(32)7771
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